同行二人


『同行二人』とは巡礼をするときに着る浄衣或いは白衣に書かれる言葉で観音様と常に一緒にいるというような意味合いの言葉です。笈摺りに書かれる言葉でもあります。笈摺りとは仏様を背負いながら巡礼する時に自分の身体に直接 仏様が触れることのないように着るものでありますが同行二人とは そこに書かれる言葉でもあります。
この同行二人という文字を見た時に感じるのは仏様と共にという意味合いですので、並んで歩くというように感じる方々がほとんどかと想像します。巡礼をされる方々に観音堂でお話をする機会がありますので私は次のお話をさせていただいております。
ある一人の巡礼者がいました。巡礼を人生と置き換えても構いません。むしろそのように置き換えていただいた方が良いかもしれません。歩き疲れたその人は木陰に佇み 椅子に腰を掛け自分が歩いてきた道のりを振り返りました。長く続く足跡は二人分ありました。ところが一人分の足跡しかない場所があります。一人分の足跡しかないところの事をよくよく振り返りました。するとその時のことが脳裏によみがえり、つらかったその時の事が思い出されてきました。そういえばあの時は本当に大変な時期だった。友達も親しくしていた人たちも一人減り二人減り本当につらかった。孤独の中にあり自分一人きりであった。一人分の足跡しかないのはその通りだ。そのように納得し人生を振り返っている時に胸の内から厳かな声が聞こえてきたそうです。その胸の内から聞こえてきた言葉とは次のような言葉です。
『あの足跡は お前の足跡ではない。私が お前を背負って歩いた時の 私の足跡なのだ』と聴こえたというのです。そのとき巡礼者ははっと気が付いて、自分の足跡だと思っていたのが実は自分を背負って歩いてくれていた観音様の足跡だったのだと。孤独の中にあり自分一人だけだったと思っていたことが 実は観音様の背中に背負われ決して一人ではなかったのだと気づかされた瞬間だったのです。
このようにして常に自分を見守ってくれている存在があるにもかかわらず私たちは気づかないのです。気付くきっかけはいつもそばにあるにもかかわらず 気が付かず孤独に苛まれ一人悩み苦しんでいるのが私たちなのです。感謝を忘れ不幸の中にある理由を他人のせいにし 苦しみの中にある理由を他人のせいにしてしまうのです。
自分は一人ではないのだと知り常に見守ってくれている者がいることを知っていたいものです。そしていつも自分と共にあり自分を背負ってくれているのだということを自覚したいものです。左右に並んで歩いているのではなく、背負われて歩いているのだと云う事を自覚したいものです。
お母さんといっしょ お父さんといっしょ
みんなといっしょ  ほとけさんといっしょ 


令和四年六月三日(金)  


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