九州からの巡礼


先週九州からの巡礼の皆様方が最上三十三観音巡礼に訪れました。様々な年齢の方々でありましたが元気のある方々でした。春と秋の二回に分けて巡礼をされるという事で三泊四日のゆったりした工程を楽しんでおりました。
初日は上山温泉に泊まり二日目は天童温泉 三日目は蔵王温泉というような温泉巡りの様相を呈した素晴らしい巡礼の旅を満喫しておりました。月山や遠くに見える朝日連峰の山々の白く輝く残雪を眺め、青く小さなさくらんぼの実やアカシアの白い花と一面の緑を眺めながらの素晴らしい巡礼でありました。
巡礼は普通の観光旅行と違い、一定のルールに基づいて順番に巡るものです。 ルールに縛られながらも ある達成感が得られるという何とも言えないものがあります。観光旅行もそれはそれで楽しいものでありますが巡礼と比べると達成感はありません。やはり、昔のお坊さんが修行の一つの方法として編み出されたものだからでしょうか。洋の東西を問わず巡礼は昔から行われてきたものです。何らかの大切な意義が隠されているのでしょう。
さて、巡礼の先達を依頼され地元の観光案内を含め各札所の歴史やその地域で暮らす人々の生活などを紹介説明をしながら、地域に暮らす人々の視線と旅行者としての視線の両方の見え方がしてくるのを感じていました。九州の方々の見え方と私の見え方は違うと思いますが、いつも見ているのと違った見え方がしてくるのを感じていました。面白いものです。新しい発見があるとか、今まで気が付かないで見過ごしているものが新たに目に入ってくるのです。新鮮な感じです。視線を変えるということがこのような感じ方をさせてくれるのでしょう。
人生はよく巡礼に例えられることが多いわけですが札所から札所へと移動しながら一定のルールに基づき同じことを繰返しながら移動してゆくというところに日々の発見があり修行があるのでしょう。移動の最中にも様々な発見がありお堂の中に入ってお勤めをするというようなことを繰り返しているわけです。
お堂の中は仏様の世界であり参道を経て口を漱ぎ手を洗い合掌して靴をそろえてお堂の中に入ってお経を唱える。
「玄関」という言葉があります。玄人の関所と書くわけですが一つの例えを表しています。お堂の中は仏様の世界 外は娑婆世界です。参道を通り玄関を経てお堂の中に入り心を点検する。そして人生の玄人となってゆく練習をする。素人と玄人の境目にある関所が『玄関』なのです。素人が玄人になってゆくという意味で使われているのが玄関ですから 私たちがこの世に生を受けることも産道を経て生を受けたわけですので、この世に生まれることも人生の玄人世界に参入するための玄関を通ったということなのでしょう。
人生が巡礼に例えられる所以の一つですね。

令和四年六月九日(木)朝


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