しあわせって何?


今日は以前に書いた文章を再考して幸せとは何かを考えてみたいと思います。座禅は何のためにするの?とか 何か役に立つの?とかの質問をよく受けます。その質問に対し以前文章にしたことがありましたので、『掃除と座禅』又は『青い鳥と幸せ』と題して改めて紹介申し上げましょう。

毎朝、座禅朝課の後に本堂の掃除をいたします。拭き掃除はたまにですが掃き掃除は毎日します。さほど大きな本堂ではないので一人でやっても三十分もあれば一通りの掃き掃除は終了します。しかし不思議なことに毎日掃除をさせていただいておりますと、部屋が光ってくるように感じられます。空気が澄んでくるような感じがします。
毎日掃除をしても塵や埃がなくなることはありません。法事や法要がなかった次の日でも塵が出てこなくなる日はありません。不思議なことです。

掃除というものはふつう綺麗にするために掃き清めるのであり、汚れているところがあれば掃除をするというのが通常です。これは目的と手段が離れています。目的は綺麗にすることでありその手段として掃除があるのです。しかし寺の場合は毎日同じことを塵があろうがなかろうが繰り返すのです。まさに『掃除するために掃除する』のです。結果的にきれいになっているということなのです。目的と手段が一つになっているのです。これを『行持』と云い目的と手段が別々になっているのを『行事』と申します。食事しお茶を飲み仕事をする。『喫茶喫飯』と云いますが繰返しの毎日の中に実は秘密が隠されているのです。隠されているというより気が付かないでいるといった方がよいかもしれません。同じことの繰り返しの中に本当の意味での気付きがあり気づきを重ねることにより今が光りだすのです。掃除はそれを教えてくれるのです。掃除だけではありません。全ての出来事が教えてくれているのですが気づかないのはこちら側の問題です。毎日の繰り返しの中に光り輝く何かが隠されているのです。同じことを繰り返すことを『行持』又は『ルーティーン』といい目的と手段が別になっているのを『行事』又は『イベント』と云うのです。
幸せも同じです。幸せになることが目的になると今やっているコトが手段になります。目的が達成されて初めて幸せになるのですから今は幸せではありません。今が幸せでなければ幸せが達成されることはありません。何故なら私たちの目的は日々移り変わり手につかんだかと思うと滑り落ち決して掴むことができないからです。手に掴むことをヤメテ 手放した時に初めて目指していた幸せが降ってくるのです。幸せに囲まれるのです。青い鳥はいつも自分の肩にとまっているのです。たとえ自分が不幸であっても青い鳥は常に自分と共にいるのです。ちょっとだけ飛んで行っていることがあるかもしれませんがそれでもいつも自分と共にいるのです。気づかないのは自分が気づいていないだけなのです。幸せは別の場所にあるのではありません。ここが幸せなのです。共に気づいていきましょう。
令和四年六月十五日(水)朝


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