苦しみはどこから来るか(二)


苦しみはどこから来るのかと云う事について考えてみようと思います。五月二日の法話にも苦しみとは何かと書きましたが。もう一度考えてみましょう。
結論は煩悩から生じるということです。苦しみに翻弄されている状態ではそれが見えてきません。苦しみだけが巨大な姿となり自分を襲ってくるように感じられるからです。苦しみを脇に置き 少し距離を置いて苦しみの状態を眺める事から始めなければなりません。
私たちが行動を起こす理由について考えてみますと、一つは感情的なものに突き動かされるものと理性的なものに突き動かされている二点のように思います。動かないという観点もありますが動かないという選択をしている点で理性的なものと感情的なものの中に含まれるとします。本来分けられるものではないと思われますが、物事を考えるという点で分析的に処理をすることと致します。
理性的な人の行動は物事を静かに見つめ原因結果の連続の中で判断します。冷たく感じられることがあるかもしれません。血が通っていないように感じられるかもしれませんが一時的な動きに左右されることなく連続の中での観察と云う事になりますので表情も変わることなく淡々と受け入れ処理されます。ただし観察する深さに関してはそれぞれで経験と先を見通す眼力が必要です。将棋や囲碁やチェスの世界によく似ているでしょう。五目並べを得意とする人と町の将棋使いと将棋の名人のような関係でしょうか。私たち素人がどんなに頑張ってみても藤井聡太棋士にはかなわない様に駒札の動きが読める人と読めない人があるのも事実です。浅い深いはありますが 総じて浅い感情とは違い冷静な目で見えている時は静かな時間が流れます。
さて二つ目の感情ですが浅い表面の感情は一時的な爆発を起こし周りとの不調和を起こすように思われます。もちろん喜怒哀楽といわれるように嬉しいことや喜びごとは感情を高揚し一時的な幸福感を得られるかもしれません。逆に悲しみや怒りは不幸感を増すことでしょう。心は上昇したり下降したりと忙しく変化します。いわゆる悲喜こもごもという言葉で表されるように心は上下変化します。この変化に対応し心を平静に保てるかは個人個人違いますが疲れます。心が安らかでない状態で『幸せ』を感じる事はありません。その中でも一時的な幸福感を味わうことがあります。ちょうど甘いお菓子を与えられ食べて喜びを感じている子供とよく似ています。確かに一時的には幸福感を得られますが長く続くことはなく更に次のお菓子を欲しがるようになります。麻薬のような 煩悩が姿を変えた幸福感です。煩悩を幸福と勘違いしている子供のようなものです。私たちの表面的な心はこのようにセットされているように感じます。
このセットされている心を冷静に見詰めることによって上下する心を飼いならすことができるようになるでしょう。苦しみから解放される一つの方法は浮き沈みしている心を一歩離れているところから観察することです。苦しんでいる心と一緒に動き翻弄されてはなりません。この苦しみと云うものを、苦しんでいる『心』と云うものを一歩離れたところから見つめるのです。一緒に苦しんではなりません。苦しみが増すだけです。寝ている枕元にまで持ち込んではなりません。悩みを苦しみに発展させてはなりません。悩みは自分を育てる養分として許されるものです。養分が根から茎を経て枝葉末節にまで広がり花を咲かせるように実を結ぶまでは表面に現れることはありません。しかし確実に花が咲き実を結ぶように悩みの先には希望の光が待っていることを信じ 進んでゆきましょう。
これは私自身への餞の言葉として送っておきましょう。昨日ある人の所を訪ねコーヒーを頂いて小一時間の世間話をして気付きのきっかけを頂いた内容です。
三日ほど前から探し物をしていたのですが、今朝ほど車の中からその探し物が出てきました。探し物が見つかるとちょっと嬉しいものですね。井上陽水ではありませんが『探し物は何ですか』の世界ですね。私たちは何を探しているのでしょうか? 何を求めて彷徨っているのでしょうか?
苦しみの原因を探り、苦しみから解放されますように。既に解放されているコトにも気が付いてゆきたいものですね。

令和四年六月二十三日(木)朝


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