除雪中に思う事(物質の三態と仏の三身)


除雪をしていると色々なことが頭の中を過(よぎ)るものです。過(す)ぎてゆくものです

先日と同じ内容が頭の中を駆け巡ったり、新しいことが浮かんできたりゆっくりとした体の動きとは別に頭というのは特に前頭葉というものは自分の頭ではないかの様に勝手に動いてゆくものです。心の傾向性によって浮かんでくる内容も変化するものだと思いますが、自分のモノではないような錯覚ともいうべき感覚が生まれてきます。

さて、今日は一応まとめてみると雪は厄介者ではあるけれど溶ければ水となり私たちの生活には欠かすことのできない命の水となります。その水も冷水から熱湯そして蒸発して水蒸気となり冷めて湯気となり水滴となって水となりもっと冷めて氷となったり雪となったりして常に変化しています。物質の三態と言います。この頃ではプラズマの状態を含め四態かもしれませんが、一応『物質の三態』と言っておきます。

この状態によって私たち人間に有益となるか有害となるかという問題が生じてきます。有害か有益かは詳細に言えば個人の感じ方にもよりますが、一応現在の私に限定しておきましょう。

数年前に我が家にボヤ騒ぎがありまして気道熱傷により県立中央病院の集中治療室に約一週間おりました。集中治療室から出て一般病棟に移ったわけですがまた一週間、都合十日以上の病院生活を余儀なくされました。一月も半ばで家の周りは雪に覆われておりましたので火のついているモノは窓の外に放り投げました。家の周りは一面雪でしたので延焼することなく小火で終わりました。雪が幸いしたのです。雪によって怪我をすることもあれば、助かることもあります。雪道の転倒で骨折する人もあれば、除雪で生計を立てている人もあります。話が少し飛びすぎましたがモノ(物質)自体が悪でも善でもありません。自分との関係性の中で善になったり悪になったりするのです。個体液体気体の特徴を生かして使い切ることが私たちにとっては大切なことになるのです。

私たちは自分自身の心でありながら自分の思うように扱うことができない、自由が利かない肉体をもって何を今学んでいるのでしょう。自由が利かない心をもって何を学んでいるのでしょう。自由が利かない魂をもって何を学んでいるのでしょう。

仏の教えに『法身・報身・応身』という三身があります。法身とは真理そのものの事ですが水蒸気に例えてみましょう。眼には見えないけれども世界に充満しているモノです。報身とは修行を積んで悟りに至ったモノの教えの事ですが、自由に姿形を変える命の水に例えてみましょう。応身とは実際にこの世に生を受け私たちの目に見える姿で生きられた仏の事です。過去の祖師方やお釈迦様のような方々ですが、これを氷に例えてみましょう。同じものでできていながら姿かたちを変えて私たちの為に変化してくださっているものです。

また私たち自身に例えてみましょう。三身とは違いますが、氷は凡夫、水は菩薩、蒸気は如来としてみましょう。同じものでできていながらエネルギー量によって全く別なものとして存在しています。自分自身の気付きの程度に応じて悪魔にも仏にもなるのです。

使い方次第で悪魔にも仏にもなるのであれば、私たちは仏になりたいものです。

気付方次第で仏にも悪魔にもなるのであれば、私たちは仏になりたいものです。

この時に必要になってくるのが『智慧』です。知識ではなく智慧なのです。この智慧を私たちは学びたいものです。磨きたいものです。情熱を持ち続けたいものです。





令和五年二月二十七日(土)    上の畑観音 別当 薬師寺住職 渡辺隆良


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