忘れてました。


この文章を書くことを忘れていました。

ここ数日は天候にも恵まれ朝の除雪の心配もなく穏やかな日を何となく過ごしていました。不思議なもので忙しく過ごしている方が文章を書くことも忘れず何かをしているという充実した一日を過ごしているような感じがします。私たちは というより私はそんな感じを持ちやすいようです。今日一日これをしたあれをしたというように何かしたことを確認し満足している自分がそこにいるというような感じです。

何もしないでいるという事に安心できない自分がそこにあるのでしょう。何か成果を上げないと安心できない自分がそこにあるのでしょう。何もしないでじっくりと自分自身を見つめるという時間が必要なのに何かしないではいられないという落ち着かない自分がそこにあるように感じます。なぜそのように感じてしまうのでしょうか?

 小学六年生の時 透き通るような満天の星が煌めく寒い夜に 数時間立ちすくみ上を見上げたままでいました。心配した姉が声を掛けてくれたので我に返り家の中に戻りましたが私自身は十分か二十分の時間を過ごしているように思っておりました。しかし二時間を優に過ぎていたのです。煌めく星々を見ながら不思議なことにわたしは時間を忘れていたのです。なにも考えずにというか とても不思議な感覚の中にあったのです。その時に「私はここに居る」のではなく「私はここに有る」という感覚でした。『居るのではなく有る』という感覚だったのです。暖かく深く 静寂な そして 何かに包まれている様な とても不思議な感覚を覚えていたのです。そして静寂な空間の中にありながらキラキラと輝き煌めく星の一つ一つが互いを雄弁に語り合うかのように会話をしているのを聴いたのです。静寂の中にありながら賑やかな会話を聴くという相矛盾するようなことが星々の中では行われているのです。メルヘンチックなことの様に思われるでしょうが、六年生の時の私にはそれが事実として聞こえてきたのです。とても不思議な時間でした。

いまになって思えば 違う次元の体験をさせていただいたのだと思っていますが外側の世界と内側の世界を同時に体験させていただいたのだろうと考えています。もっと言わせていただければ内も外もない世界というのでしょうか。個人的な意見ですので流していただければ結構ですが、時間や空間を超えた世界とでもいうのでしょう。



世界は 「私とあなた」 「上や下」 「遠い近い」 「裏や表」 「増える減る」 「生じる滅する」 「浄と不浄」 「白と黒」 「内と外」 「過去未来」 「長い短い」 「これとそれ」  「東と西」 「北と南」 「生と死」 「肯定否定」 数え上げれば限がありません。所謂相 対している世界なのです。相対的世界なのです。この相対的世界を超えるという意味で般若心経ではこのように記してあります。

「不増不減」 「不生不滅」 「不垢不浄」 あくまでも私の見解ですが。



この世界は比較対象の世界です。他人と比べて幸不幸があるのではなく、今ここに居る事が有ることが幸せなことだと知ることです。気付くことです。ナンバーワンでもなくナンバーツーでもなくオンリーワンなのです。他人と比較しての幸せは真の幸せではなく、私たちは元々幸せなオンリーワンなのです。 そう思います。

さて元々特別なオンリーワンの私に感謝し 元々特別なオンリーワンのあなたに感謝し今日一日行きましょう。今日のあなたに幸あれ幸あれ。





令和五年二月十五日(水)    上の畑観音 別当 薬師寺住職 渡辺隆良


一覧へ戻る