知るという事 (その一)


あるマンションでの出来事がニュースで流れました。隣の部屋から聞こえる音が問題で隣人とのいざこざが絶えなくなってきているという事です。人間関係がぎくしゃくしてくると同じ所に住みたくなくなるというものですが感情的になってきて相手が悪い者に見えてくるものです。そうではいけないと思いながらマイナス面が先だって良い感情が芽生えて来なくなるようになります。洗濯機の音や部屋を歩く時のスリッパの音、まな板で野菜を切る音までが気にかかるようになりストレスが溜まってくるそうです。マンションの作りにもよるのでしょうが音の伝わり方というのは複雑で、隣の部屋の音でない場合が多く色々な原因が重なって聞こえてくるというのです。

部屋の住人が余りにその生活音が気になるものですから管理人にお願いをして原因を追究してみたところ隣の部屋からの音ではなくマンションの鉄筋をつたわってくる別の階の音であったりしたそうです。管理人にお願いをして音の原因を追究したことで隣の人への悪印象が消えストレスが減少したということでした。

 私事でありますが、数年前左腕の手術の為に約二か月ほどの入院生活を余儀なくされました。コロナ過でしたのでそれ以前からかもしれませんがプライベートを守るという事からかもしれませんが一人一人のベットがカーテンで仕切られていて隣の人の顔を知らないまま二三週間にわたり過ごすことになりました。看護師や医者との会話で名前を知ったり家族との会話の中でどこの人かどんな仕事をしている人なのかを伺い知る程度でした。四人部屋での入院でしたが、顔を見ることなく知らないままで過ごすという事は一つの物音に関しても知らず知らずの内に耳に刺さるようになります。

ある人は 早朝から薬の袋を開ける音でしょうか。カサカサとかジーっとかまたある人は煎餅が好きなのでしょうか パリパリパリと また別の人は 歯を磨く音がうるさいのです。洗面所で済ませればいいのにどうしてベットで歯を磨いているの? というように子細なことにまで心が行き届くというか気になるというか。いずれにしてもストレスがかかるのです。ところが数日たって何かのきっかけでカーテンを開けて顔を見て言葉を交わすようになると今までのストレスが小さくなっていることに気がつくのです。

許せるようになっているのです。顔を見るまでは言葉を交わすまではストレスがかかっていたのが、顔を見て言葉を交わすことによって相手に対して温かく見守っていけるようになっているのです。

相手を知ることによって許すことができるようになるのです。知らなければ批判の対象としてみてしまうことが、興味の対象として見えてくるのです。更に知ることによって興味の対象から受け入れの対象となり更に知ることによって許す対象にまでなってきます。

自分が相手を知ることによって世界を知ることによって知っている範囲にまで意識が拡がるという事です。知っている程度に応じて世界が広がり自分が広がり究極は自分も他人もない すべてが自分であり自分が世界であるというところまで拡がりを持つようになるのでしょう。この時の『自分』という意識は通常の今の自分ではなく空間を超えているという意識です。意識しているという事さへ ないかもしれません。 続きは次回へと



令和五年二月二十四日(金) 上の畑観音 別当 薬師寺住職 渡辺隆良


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