知るという事 (その二)


前回に引続き「知るという事」について触れてゆきましょう。

入院生活を引き合いに出して隣の入院患者について前回はお話をいたしました。今日は一人の老人についてお話をいたしましょう。

生老病死と言いますが四苦八苦の四苦の一つです。「老いの苦しみ」です。年老いた人でも肉体的にも精神的にも強い人もおりますが 一般的に年を追うごとに衰えてくるものです。若い時に比べると弱くなったり、逆に若い時と比べると熟成された知恵を持つものが出てきたり という事でいわゆる若い時と今を比較するものです。若い時にキチンとしていた職業についていた人ほど立場が変わり若い時の役柄を引きずって当時の「元 〇〇社長」等と言った名刺を老人ホームで配り自分のプライドを保ったりする人が居るという事です。中々今の素の自分を認められないのでしょう。話はとんでしまいましたが老いの苦しみの一つです。

 老いには現在欠かすことのできない問題があります。「痴呆」の事です。昔であれば、痴呆になるまで長く生きることができなかったのかもしれません。程度の差こそあれ痴呆になって生きながらえることはできなかったのでしょう。今は老人ホームなどの完備により施設が整い長寿を全うすることができるようになりました。しかしそれは施設の完備であって その中で生活をしている多くの人々が幸せな生活をしているのかというとそれは別問題です。幸せの基準に関しては別記いたしますがここでは金銭 健康 人間関係の三つに集約しておきましょう。

老いの苦しみは老いている自分を意識できないままでいるという事です。

特に思い当たることは金銭の問題と食べ物の事です。お金の問題は若いうちもあるかもしれませんが お金が無くなった問題です。世間でよく聞く話ですが盗まれた 取られた という話です。物忘れがひどくなってきているのですが本人にはそれが理解できないので自分は忘れていないしっかりしていると思っているのです。その割に探し物が多くなっているのですが本人の意識は昔のままでしっかりしていないのは周りのモノであるという風に思っているのです。そして周りのモノの不甲斐なさを嘆いているという訳です。滑稽に見えますが本人にとっては極めて深刻で不幸の連鎖が始まっています。

今の自分自身を知るという事が不幸の連鎖にならない様になるための重要な条件になってきます。

生活のすべてがそのように自分(我)を中心に回っていますので自分を知るという事が幸せへの第一歩になってくる事でしょう。



前回お話ししましたが相手を知ることによって批判の対象から興味の対象へそして許す対象へ 更に 対象ではなく「相 対しているモノ」 が実は自分自身の意識の投影であり投影されているものが 自分自身であるという事に気がつくようになってくるのです。映っているものが何ものかによって自分が見えてくるのです。たとえ嵐でもたとえ穏やかな陽の光でも素晴らしいものと映り そこに静寂な世界が展開する時 それが自分なのです。



知るという事は今までは対象を知るという事でしたが、本当は自分自身を知るという事なのでしょう。



令和五年三月三日(金) 上の畑観音 別当 薬師寺住職 渡辺隆良


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