『掃除と座禅』


今日は一年半ほど前に書いてみた文章を再考してみたいと思います。
掃除と座禅という題名で書いたものですが、毎日同じことを繰り返すという事についての話です。
毎朝、座禅朝課の後に本堂の掃除をいたします。拭き掃除はたまにですが掃き掃除は一応毎日します。さほど大きな本堂ではないので一人でやっても三十分もあれば一通りの掃き掃除は終了します。しかし不思議なことに毎日掃除をさせていただいておりますと、部屋が光ってくるように感じられます。空気が澄んでくるような感じがします。毎日掃除をしても塵や埃がなくなることはありませんが法事や法要がなかった次の日でも塵や埃が出てきます。不思議なことです。多い少ないはありますが必ず出てきます。

座禅をすると何か良いことがありますかという質問を受けることがあります。この質問の背景には座禅をすることによって何か得られるに違いないという期待が存在しています。この「何か」が問題なのです。私たちは常に一つの行動の後には結果があると思い込んでいます。座禅という行為を行った後には「何か」結果が得られるに違いないと信じています。つまり一つの行為の延長線上に目標なり結果があると思っているのです。目標に向かって手段があり結果があるという事を無意識に信じています。目標に向かって 何か得られると思い努力しているからこそ足の痛いのも我慢して座禅が終わるまで座っているのでしょう。自分なりの結果が得られなければ努力の仕方が悪いのだとか 何かが違っているからなのだという思いをもってまた努力をするのでしょう。道元禅師はこのような座禅を「三界の座禅」とか「凡夫の座禅」と云ってきつく誡められています。さて道元禅師はこのような座禅を何故きつく誡められているのでしょうか。
ここで掃除について考えてみましょう。先ほどなぜ座禅をするのかという質問をした人に対し 逆に「あなたはなぜ掃除をするのですか」と質問をしてみます。するとほとんどの人は「きれいにするために掃除をする」という返事を返します。さて あなたはどうでしょう。同じような答えが返ってくるのではないでしょうか。これは綺麗にするという事が目標になっていて掃除はその手段になっているという事です。目標と手段が別々になっているのです。お寺の掃除はどうでしょうか。私はこのように応えてあげます。
「綺麗にするために掃除するのも間違いではないけれど毎日掃除するから掃除をするのです。日々の繰り返しなのです。結果として綺麗になっているのです」と答えてあげます。綺麗にするために掃除するのではなく毎日繰り返すことによって結果として綺麗になっているのです。目的と手段が離れているのではなく一つなのです。これを禅的に表現すれば「修証一如」と云い法華経で云えば「等覚一転名字妙覚」と云います。遠い所に悟りがあるのではなく覚りは自分の足元にあるということです。
難しい漢字が出て来たので注意をしなければなりませんが表現の仕方が違うだけです。
座禅を説明するために掃除を引合いに出しましたが、一般的には手段がありその先に目標なり目的があるように思っています。綺麗にするために掃除をするのであり目的は「綺麗にする」事であると思っています。その手段として掃除があるのです。しかし道元禅師は手段と目的に分けるのは凡夫の見方であると言います。毎日掃除を繰り返すことによって結果として綺麗になるのであって綺麗にするために掃除するのではないということです。つまり目的と手段が分かれているのではなく一つであるという事です。繰り返しになりますが目的と手段が一つであるという事を「修証一如」と云います。
つまり座禅は手段ではなく「さとり」そのものであるという事です。悟りに到るための手段としてはいけません。座禅は「さとり」そのものであるがゆえに仏祖の行というのです。諸師方が行ってきたことであるから或いは祖師方が行じられてきたが故に私たちは座るのです。結果として素晴らしいものが得られることでしょう。しかしそれを得るために座るのではありません。順番が逆になってしまうのであればそれは凡夫の座禅に陥ってしまいます。特に注意しなければなりません。
座禅の説明に掃除を引合いに出してしまいましたが私なりの説明をしたつもりであります。
さて話を戻しましょう
同じことの繰り返しを「行持」と云いルーティーンと云います。行事ではなくイベントではありません。同じことの繰り返しの中に日々新しい気づきがあり頭をめぐらさず動かず自然に身をゆだねることによって肉体的にも精神的にも自分自身の変化に気づき静かに眺めていることの中に偉大なものを感じるのです。

「覚り」は遠くにあるのではなく自分自身の足元にあるのですから毎日の生活の中に一生懸命に自覚をもって今を生きてゆきましょう。その気付きの中に「悟り」がありその姿の中に「証り」が明かされているのです。迷っている時も悟ったという誤解をしている時も 全てが仏の手の平の上の事ですから執着することなく一生懸命謙虚に生きる事が大切なことです。「不放逸」に生きましょう。言葉遊びになりますが行持を大きなスケールで見た時に大行事が行われているのです。行事と行持がイコールで結ばれていることに気がつくでしょう。
令和五年五月三十一日                早朝


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