『ある老人の話』


六月も早いもので中旬になりました。梅雨入りしたという事で何となくしっとりとした雰囲気で銀山温泉往来の車の音もしっとりしています。

四月初めに天童で九十五才の男の人が亡くなりました。尾花沢に居た頃は郵便局で元気に働いていた方ですが天寿を全うした方です。電動自転車で近くの畑に早朝より出かけ玉ネギやナスや葱など一緒の職場で働いていた方と色々な野菜を作っていました。その方が今年の四月十日に亡くなりました。亡くなる前の話ですがとても興味深いお話をされていたのでここにご紹介をさせていただきます。不思議な話というのは古今東西あるものですがアンテナを向けていないと聞こえてこないものです。

さて、その方が亡くなる数日前の話です。家の人が亡くなった本人から直接聞いていることなので間違いはありません。理解の仕方はそれぞれですが、話の内容はとても興味深いものです。

 本人が亡くなる前に母親の処に挨拶に行ったという事です。母親は昭和六十年四月十三日が命日で既に三十数年前に亡くなっています。四月半ばの事で雪深い尾花沢にはまだ家の裏の軒下に雪が残っている頃です。この度亡くなったおじいさまが三十数年前に亡くなっている母親の処に挨拶に行ってきたという話です。その時の話の内容ですがこのように話したそうです。「まだ来るな 今は極楽が忙しいので少し待て」という意味の話をされたそうです。それで一週間ほど先延ばしをしたそうですが 無くなる二日ほど前には体調がすぐれないのでそろそろ帰ってもいいだろうという事で話をされたそうです。そして十日に電話連絡を受け天童の葬祭場に伺い枕経を勤めさせていただいたという訳です。

亡くなる時節には色々な話を聞く事がありますが やはり通常の生活の中では聞くことができないような話があるものです。

解釈は色々ある事でしょうが、亡くなった本人や家の人が話していることは素直に受け止めることが大切だと思います。世間には「あの世」等ないのだとか脳の錯覚による幻影であるとか様々な説明はある事でしょう。それはそれで構いませんが体験をしている本人からすれば事実なのですからそのまま認めることが大切なことだと思います。

自分が理解できないからと云って 或いは知らないからと云って否定するのではなく 判らないのですから否定も肯定もすることなくまず認めるという事が残された者たちの心掛けだと思います。その上で自分の考えというモノを出してくるのは構いません。いずれにしてもその人の言っていることをまず認めるという事が私たちのなすべき最も大切なことであります。



令和五年六月十三日                早朝


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