『法要が終わって』


先週の金曜土曜に 山形県の北部 梅の里 真室川のお寺様で晋山結制本葬という慶事 弔事を合わせて行う慶弔会がありました。多くの御寺院様参加の法要で地区の檀家さん又遠距離の檀家様も含め教区法類の沢山のお坊様方の参加を得て無事盛会裏の内に終了することができました。地方地域によって様々なやり方がある事でしょうが雪深い山形では昔ながらの風習が残っており、現代風に略した形とは言いながら準備から備品調達、諸連絡集計と目に見えない準備に相当の日数と労力が費やされました。地区の若いお坊様方が中心となり尽力し二日間にわたる法要でありましたが無事終了いたしました。色々な配役に当たる和尚様方がそれぞれの動きをして一つの法要が成り立つわけでありますが一代に一度やるかやらないかという滅多に見ることができない大法要ですので檀家様方は皆感激をしておりました。法要全てが終わってから総代さんが謝辞を述べられるのですが言葉を詰まらせる場面が多々ありました。

一人一人の心と進退が全体の法要の素となり調和を生出し 参加されている人々の心に感動を起こさせるのだなと思いました。

茲に『個と公』を感じさせることになるのです。一人一人の進退がそれぞれにあり それを全うすることにより調和を生出すことになるのです。この大調和を見て或いは感じて人は感動するのでしょう。個の集合が調和を生出すのではなく、個の進退が調和を生出すのです。個と公のどちらが上下という事はないのですが『個』が集合したからと云ってもそれには個としての動きが無いと全体としての動きが出て来ることはなく、個だけが動いても全体としての動きが出てくることはないのです。この『調和された動き』こそが『働き』なのです。

部品の働きこそが自分でありこの働きを役目というのです。この役目の事を法要では『配役』というのです。そして配役は地域の主だった御寺院様法類で決め皆さんの承認を得るという形になっています。その配役を全うすることによって大調和を生出し参加されている人々の心に感動を呼び起こすという構図になっているのです。

法要というモノは生き物とよく言われるのですが、各配役を全うしていても突然別の要素が入り対応を迫られることもあるわけですが臨機応変に処理できるように大様な心も持ち揃えておかなければなりません。

何れにしても大変すばらしい法要でありました。

今日はここまで。



令和五年六月二十六日                午後


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