『自由とは』


『自由とは』
自由とは自分の思うようにすることではない。我儘を通すことではない。自由とは『自らに由って立つ』これを自由と云うのである。

自由と云うのを自分わがままを通すことだと思っている人の多くの場合、他人との摩擦を引き起こし やがて行きつくところまで行くというのが常であり 争そい事を引き起こし勝ち負けの世界に堕ちるのである。現代は全て『いい仕事をしていますね』の番組にあるようにイコールお金と云うような傾向にあり底辺にお金が存在し総てを金に換算する傾向がある。勝った方が金を得 負けた方が金を失うというような傾向にある。

しかし世界はお金に価値を置く人もいればそれ以外に価値を感じる人もいるのである。そして以前はお金以外に価値を感じる人も数多くいたのがこの日本である。儲かれば良しとするのは底辺にお金の存在がありそれにのみ価値を置く考え方である。これをバール信仰と云う。古代フェニキアの人々がこのバール信仰に陥りやがて崩壊していったように価値観がお金一つになるという事は滅びを誘うことになるのかもしれない。多様な価値観とは昔からよく言われるが、違う価値観を認めるという事は世界を生きてゆくためにはとても大切なことかもしれない。

さて、自らによって立つという事はどういう事であろうか。

道元禅師と云う方がこのように言われている。『仏道を習うというは自己を習う也 自己を習うというは自己を忘るる也 自己を忘るるというは云々』後に続くのであるが、自由と云うのは自分自身によって立つのである。その為には自分というモノが何者なのかと云う事を探求しなければならないのである。このことに関しては別に考えることになるが 普通は自由気ままにという言葉があるように自由と気ままが同じものであるかのように勘違いをされているのである。

気まま、気のままにという事を放置すれば 心の赴くままにと云う事になり 暴れ馬の様に自らの欲望のままに行動すてしまう事が常である。通常の場合 心は暴れ馬の様に五感によって勝手に騒いでしまい、それに従って行動すれば煩悩の赴くままに行動することになり世界は争いの中に争いが生まれそして埋もれてゆくことになる。今までの世界の歴史の多くがそのようになっている。

争いに勝った方は醜く傲慢になり 負けた方も心が委縮し怒りや恨みを持ち 醜い姿となり日々を過ごすことになる。何れにしても状態の良い世界に過ごすことはできない。恨み心でもって『平安(へいあん)』が来ることはなく恨み心で『安心(あんじん)』は得られない。

今日の朝ドラ『らんまん』を見て感じたことである



令和五年九月十四日 上の畑観音別当 薬師寺住職 渡辺隆良記


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