『不思議とは』何か


不思議とは思議できないという事でするの。自分の想像の域を超えているので考えることができないという事です。まして議論するなどと云う事はできないわけです。それを『不思議』と云うのです。或いは『非思議』と云ってもよいでしょう。

不思議とは思ったり議論したりするには知識が足りなく充分な考えを抱くことができないという意味です。非思議とはもはや私たちが抱く考えや思いではなく それを遙かに超越している域であり想像すら及ばない次元が違うといった意味です。

例えるならば球体を平面に展開した場合の事を考えれば理解できるでしょう。私たちは立体の世界 空間の中で生活をしています。球体を平面上に展開するならば様々な形に変化するのを見るでしょう。西瓜を縦に切るならばその表面は上下が小さく中央がやや膨らんだ形をみてそれを何枚も並べる形を見ます。横に表面の皮を切って平面に展開するならばリンゴの皮を剥いた時にできる形をそこに見るでしょう。中心から丸まり外側に向かうに従い大きな円を描き更に左右を対称に逆の形を見るようになります。メルカトル図法を見てみるとその事がよくわかるかと思います。

私たちは球体を平面に展開し様々な姿に変化した形を見ても同じモノであったことを理解するのは容易です。元の球の姿を知っているからです。しかし球体を知らず平面しか知らない者に平面に展開された違った形を見せられても同じものであるという事が理解できないのです。元の形「球体」を知らないからです。平面の形が違っていても前段で記述したように立体である球体を知らず眼前の平面展開図が全てであり 違ったものとしてしか理解できないのです。私は小学生の時、世界地図を見て飛行機がロサンゼルスやサンフランシスコに行くときに何故アラスカを経由してゆくのか意味が分かりませんでした。真直ぐに飛べば近いのに、なぜ曲がって飛ぶのかが理解できませんでした。答えは地球が平面ではなく球体だったからなのですが その時に見ていた地図はグローバル世界地図と云う平面の地図だったのです。

このように平面で世界を見ている人は立体を理解できないのであり 立体と云うか空間で世界を見ている人は空間以前と云うか空間以後と云うか その世界を理解することができないのです。『思議』することができないのです。これを『不思議』又は『非思議』と云うのです。時間や空間に左右されない世界の事を私たちは理解できないのです。

ある科学者が言いました。『小さな箱の中に大きな箱が入る。そのような世界です』と。或いは『粒と波の性質を同時に持つのです』と。

その意味で一段と高い次元から見れば当たり前のことが私たちから見ては不思議と感じる事が展開するのです。高次な観点から世界を見るなら『不思議』と云う言葉は存在しないのです。

しかし世界は不思議と思われる様な事に溢れており新しい事に満ち満ちております。それは私たちが成長の中にあるという事の証明であり福音です。

自分がどの次元から世界を見ているか また感じているかと云う事が最も大切であり、世界が自分自身に語り掛けてくる内容自体が自分の住んでいる世界であり自分の今の境涯なのです。

令和五年九月二十六日 



上の畑観音別当 薬師寺住職 渡辺隆良記


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