『あけましておめでとう』
あけましておめでとうございます。少し遅くなった年頭の挨拶ですがホームページの文章を再開いたします。約三か月ぶりです。
朝起きてトイレに行くことから始まり顔を洗い歯を磨き一日の行事が始まります。毎日毎日同じことを繰り返します。同じことの繰り返しの中に感謝して生きられれば幸せであるに違いありません。感謝できるかできないかが『幸不幸』の分かれ道になるに違いありません。
私たちはその日その日の気分で幸せであったり不幸せであったりします。多くの人はその日その時の気分で幸不幸を決めています。『幸不幸』の基準は人によって違いますが多くの人の場合には『気分』であり ます。天気が良ければ気分が良いし悪ければ気分が悪い。隣に好きな人が居れば気分が良いし嫌いな人が居れば気分が悪い。ニュースの内容を見て気分が良くなったり悪くなったりして今日一日が始まる。その様にして気分というモノによって自分の幸不幸を決定してゆく。自分の気分が周りの環境によって決定されているのです。これを感情と云ってもよいでしょう。周りの環境によって自分の感情が左右され幸不幸が決定されているのです。
自分で決めているのではないのです。周りの人や周りのモノによって気分が揺さぶられ幸不幸が決められているのです。体調の良い悪いもありますが、何れにしても自分の幸不幸が周りの人やモノによって決定づけられているというのが多くの人の実状だろうと思います。
さて実際に幸不幸を感じている私自身とは何者なのでしょう。家の中にあっては夫であったり妻であったり子供であったりします。社会の中では会社の社長であったり社員であったり課長であったり部長であったりと部署によって自分が変わってきます。赤ちょうちんに行っては上司の愚痴を聞いたり愚痴を言ったり、その場その場で自分というモノが変化してゆきこれが自分だというモノをみつけることができないままでいます。周りとの関係性の中で自分自身が変化してゆきます。しかし変化しながらもそれを感じている自分が居ることも事実です。変化しながら変化している本体のようなものを感じるのです。これを自分だと勘違いしているのではないでしょうか?
これを私は『記憶』とか『思考』とか『感性』と云うように考えます。考えている自分が変化しながら此処に居るわけですが何れにしても幸不幸の中に心身を置ていることも事実です。
さて今年も新たな年を迎えているわけですが幸不幸に左右されることなく日々を過ごすことができれば、これに増す『しあわせ』はないと思っています。
読者の皆様も今年一年『健体康心』を過ごすことができますように祈念いたします。
令和六年一月十二日
上の畑観音別当 薬師寺住職 渡辺隆良記
多幸華『仏手柑』
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